好きに勝る才能なしという言葉は人類史で見ても事実だと思う

思ったことログ

最近読んでいる本、面白いことがたくさん学べている。中でも先日読んだ章に、とても印象に残っている部分があった。

それが”必要は発明の母”とは言うが、歴史を見ると、発明が先にあり、それを使ってみたら使えたから使い続けたという順序が正しいというもの。

ってことは、好きなことをすべきという発想は人類史の理にかなっているんじゃないの?とか思う。

才能とニーズの関係性

成功は運の要素が大きい

世の中に成功や失敗と呼ばれるものがある。勝ち組とか負け組とか。なるべく勝ち組に行きたい、成功と呼ばれる部類に行きたい。そう願う人が大半だと思う。

でも、実際は運の要素が多分にある。どこの国で生まれるのか、どんな家庭で生まれるのか、どんな価値観の中で育つのか…それらは本人が選ぶことができない割に、その後の人生を大きく左右する。

加えて、何を得意として、何に興味を持つのかも本人は選べない。無意識の範囲のことから。

そういう意味で、成功や勝ち組やらは、努力もさることながら才能の要素も欠かせないし、なんなら、それは運に左右される。だから、貧富の差で人間を格付けするのはよくないって話になってくる。

”必要は発明の母”ではなく”発明が誰かに必要とされた”と言う順序で技術が発明されてきた歴史を見ることが、この運の部分をより強化するよねって思っている。

必用が発明を生むのか?

僕が成功が運の要素だな…と思う理由として、”その人が持つ才能がたまたま多くの人に喜ばれるものだった”というものがあると思っている。

例えば、大谷翔平の野球の才能は、野球がない国の子供に授けられていたとしても何も生み出さなかった可能性が高い。でも、その子供は野球の才能があるから、野球に出会えれば野球に没頭していた可能性はある。

例えば、松本人志の笑いの才能は、笑いの文化が発展している日本だからこそ受け入れられ、今の地位が築けたという考え方もできるはず。コメディや笑いがエンタメ市場として成立していない国で生まれていれば、お笑いが好きな面白い一般人で終わっていた可能性がある。

 

何かを成すには才能が必要だけど、その才能を必要とする人が多い環境に居るからこそ富を生んでいく。しかし、それを求める環境の中にいるからといって、その環境の中の人は全て才能が開花するわけじゃない。

現に野球ファンが多い日本で、一部の人にしか野球の才能がない。

必用だから残るというのが事実

読んだ本によると、それにニーズがあるのかないのかは発明品には関係が無い。

車輪という発明は画期的であり、当時どの国も使ったほうが良いレベルの発明だけど、歴史の中では車輪を作る技術を有しているのに社会に一切使ってこなかったという国もある。

なぜ使わなかったのかというと、必要が無いから。車輪で代用すべきことを人でやるほうが経済的だから。つまり、ニーズが無いから発明品を使わなかった。

発明がなかったわけでも技術が無かったわけでもなく、ニーズが無かったから使わなかった。必要が発明を生んだのではなくて、発明が必要とされる環境なのかどうかの違いが大きいというのが歴史の中で分かっている。

逆に言えば、ニーズが無いから消えた発明や技術もある。ロストテクノロジーとか言われているものがそれで、それらは必要とされなかったから消えた。

そして、後世でその技術を必要とする人が生まれても再現できない。必要とされても技術は生まれない。

思うのは…

ニーズを重視することは社会で見れば正しい。でも、個人レベルでは好きを追求していくという姿勢で良いのではないか?と思う。

それが今の世の中でニーズがないかもしれないし、豊かさに繋がらないかもしれない。

でも、好きだから追求していく、好きなことを磨いて重ねていく。それによって蓄積される技術や発想、成果物がいつかどこかで必要とされるかもしれない。

でも、こればかりは発明が先で、必要が後なのだから、どうしようもない運の世界だと割り切るしかないと思う。

幸い、人間は好きなことをしていると没頭するように設計されている。没頭している時間はネガティブな感情が湧き上がらない。ネガティブな感情が湧き上がらない時間が多い人生は不幸ではないはず。

その好きで突き詰めたものの価値を世の中が認識して求めるかもしれない。その時は豊かさが訪れるかもしれないけど、生きている間にそれが享受できる保証はない。

ゴッホは最たる例だと思う。情報が行きかわない時代だから価値を見出せなかったということはあると思うけど、それでも死後にこれだけ絶賛される人が生前評価されなかったのは、やはり世の中がその価値を求める土壌がなかったと解釈するのが自然だと思う。

しかし、ゴッホは絵を描くのが好きだからやめなかったし、辞めなかったから技術が磨かれ、オリジナルになったんだとも思う。

 

ふと思うのが、なぜ人間それぞれの価値観が違い、得意不得意が違うのか。

新しいものを発明し続けるためにそう設計されている可能性もある。好みや特技をバラバラにすることによって、突然変異的に誰かが何かを生み出すかもしれない。神様はそう思って人間を作ったののかもしれない。

 

そういえば、先日ある漫才師が「終始客に媚びた漫才をしているとつまらない漫才になるよ。自分たちが面白いと思うことをやってこそ個性だからね」とアドバイスされているのを思い出した。

好きを追求してこその個性。それは他にない唯一無二。それをお客様は求めているのでは?
ニーズにこたえるとはそういう事では?ということなのかな?とも思った。

好きと得意を追求する。それを誰かが必要とするかもしれないしないかもしれない。それはさておき、好きなことを突き詰める過程は幸福を感じれる。それが人間なのかな?とか思う。

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